お友達とのおしゃべりを終えて上機嫌の母は、
さっそく娘の私に「そこの新聞と、あと赤ボールペン、取って」と用事を言いつける。
それは実家に帰った時の、いつもの、当たり前の光景だ——母が寝たきりになっている以外は。
母は新聞のテレビ欄に赤ボールペンで印をつけていく。見たい番組を見逃さないように。
サスペンス劇場と、それから、NHKのダイオウイカの特番…
新聞に丸をつけていた母は、ふと私の方を見て、
「のりこ、気をつけないと、ほら頭にアイスが当たりそうになってる」と言い出した。
???——ア、アイスが当たりそうになってんの?私の頭に⁉️
振り返ってみると、ダイニングに白いLEDライトがぶら下がっていた。
丸い、ふっくらとした、なんだかお餅みたいな…、
ってまさか、もしかして、大きな”雪見だいふく”に見えてる?
確かに”雪見だいふく”は母の大好物だが、ぶら下げる場所も遠近感もむちゃくちゃだ。
気を取り直して、ダイニングにあったバナナを母のところに持っていく。
「バナナ、食べる?」
「このバナナ、いまは首がちょん切れて転がっとるんかな?」
へ?——バナナの首、ど、どこらへんが首?
「だって、ふつうバナナは、そこいらを歩いとるでしょう」
「ん〜、お母さん、バナナは、あんまりそこいらを歩いてはいないかな〜」
「そう?じゃあこのバナナは、首をちょん切られて死んどんじゃな」
なんてことを言いながら”首がちょん切れた”バナナを、母は美味しそうに食べ始める。
当たり前に見えていた世界が、ゆっくりと崩壊していく。
母は朗らかに話し続ける。
「そういえば、さっき」
「うん」
「そこのタンスから男の人が出てきて…」
——男の人がタンスからっ、マジか⁉️
「で、バッシャーンって飛び込んで…」
——…飛び込んだ?どこに?
「平泳ぎで、天井の方に泳いでいったんだけど…」
——平泳ぎなんだ、クロールじゃなくて。
ダイニングに座っている父が「アホなこと言うな」と怒っている。
背中が痛くてイライラしているんだろう。
父の声がなんだか遠くに聞こえる。
ああ、そうか。知らなかっただけなんだ、私が。
もはや実家はふしぎの国。
いろんなことが変わってしまっていた。
天井からぶら下がるアイス。歩き回るバナナたち。
もしもいま、懐中時計を手にしたうさぎを捕まえることができたなら、時間を元に戻せるだろうか。
いきなり現れた「ふた親介護」という迷宮の大きさに、その先の見えなさに、ただ茫然とするしかなかった。

